9 13, 2004
■人間の価値・判断基準のあいまいさ
うん、ちょっと気になったので。
世の中何をもって、物事を判断するのか。
個人個人、様々だと思う。
たとえば料理の旨さ。
これまで生きてきて、俺は食えないほどまずい料理というのを食べたことがない。
もちろん、素材の好き嫌いに由来する「まずさ」を感じたことはある。
だけどここで話題にしたいのは、人間の手の加え方によるうまいまずいだ。
学校給食など思い出して欲しい。
みんなが「不味い」と騒ぐメニューが、必ずあったはずだ。
そんなメニューが出たとき、決まって友達同士で「不味い」と言い合ったりしたもんだと思う。
俺ね、そういうときって、たいして不味いと感じてなかったんだよね。
つーか、まずいって?てかんじ。
今だから訊きたいけど、ホントに不味いと思ってた?
みんなが言ってるからじゃねぇの?
とか思ってしまう。
確かに味が濃かったり薄かったりってのはあったけど、食えないわけじゃない。
味の濃い薄いは、俺の中じゃ「不味い」という判断基準にはなっていないってことだ。
さらに、熱い冷たいに関しても同じ。
温めた方がおいしいかな、というときはあるけど、それで不味いと感じたことはない。
俺の「不味い」の判断基準が恐ろしくレベルが低いんだろうか?
世の中の人って、どんな基準で「うまい」「不味い」を判断してるんだろうか。
そして、どうして他人の判断に、いとも簡単に同意できてしまうのか。
食べ物の味はひとつのたとえとして挙げたわけだけど、人間の意識なんて十人十色だ。
どんなことにも、どんな人にもそれぞれの考え、意見、行動がある。
話し合いの場でも、いつもの生活の中でも、1人でいるときでも、常に心にとめておくべきことだと思う。
自分の考えを、しっかり持つこと、主張することは大事だ。
そしてもっと大事なことは、その主張を受け止める側には、自分が思っている以上に、本質的な部分での理解はされていないこと。
集団心理、仲間意識、相手の思いこみ、いろいろな言い方はあるけど、そういう物が作用して、自分が感じている・考えていることのいくらかは、相手には伝わらないとおもう。
もちろん、これを埋めていく努力を続けていくことが、人として生活するっていうことなんだろうけどね。
世の中何をもって、物事を判断するのか。
個人個人、様々だと思う。
たとえば料理の旨さ。
これまで生きてきて、俺は食えないほどまずい料理というのを食べたことがない。
もちろん、素材の好き嫌いに由来する「まずさ」を感じたことはある。
だけどここで話題にしたいのは、人間の手の加え方によるうまいまずいだ。
学校給食など思い出して欲しい。
みんなが「不味い」と騒ぐメニューが、必ずあったはずだ。
そんなメニューが出たとき、決まって友達同士で「不味い」と言い合ったりしたもんだと思う。
俺ね、そういうときって、たいして不味いと感じてなかったんだよね。
つーか、まずいって?てかんじ。
今だから訊きたいけど、ホントに不味いと思ってた?
みんなが言ってるからじゃねぇの?
とか思ってしまう。
確かに味が濃かったり薄かったりってのはあったけど、食えないわけじゃない。
味の濃い薄いは、俺の中じゃ「不味い」という判断基準にはなっていないってことだ。
さらに、熱い冷たいに関しても同じ。
温めた方がおいしいかな、というときはあるけど、それで不味いと感じたことはない。
俺の「不味い」の判断基準が恐ろしくレベルが低いんだろうか?
世の中の人って、どんな基準で「うまい」「不味い」を判断してるんだろうか。
そして、どうして他人の判断に、いとも簡単に同意できてしまうのか。
食べ物の味はひとつのたとえとして挙げたわけだけど、人間の意識なんて十人十色だ。
どんなことにも、どんな人にもそれぞれの考え、意見、行動がある。
話し合いの場でも、いつもの生活の中でも、1人でいるときでも、常に心にとめておくべきことだと思う。
自分の考えを、しっかり持つこと、主張することは大事だ。
そしてもっと大事なことは、その主張を受け止める側には、自分が思っている以上に、本質的な部分での理解はされていないこと。
集団心理、仲間意識、相手の思いこみ、いろいろな言い方はあるけど、そういう物が作用して、自分が感じている・考えていることのいくらかは、相手には伝わらないとおもう。
もちろん、これを埋めていく努力を続けていくことが、人として生活するっていうことなんだろうけどね。
まき散らし | Posted by トモフスキー at 14:31
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